若手監督インタビュー 『葬式の朝』糠塚まりや監督

“葬式なのに楽しい”というのが違和感としてあった

 

——まず、『葬式の朝』の制作プロセスを教えていただけますか。

 

糠塚『葬式の朝』は最初に監督として撮った映画で、その前に一本も撮ったことがなく脚本を書いているだけでした。芸大の先輩から連絡があって、「桃まつり」っていう女性監督だけの映画祭で新人監督枠っていうのがあるんだけどそれやる?って言われて。「はい、やります。そりゃやります。」みたいな感じで(笑)。「嘘」とか、「好き」とか、毎回テーマが決まっていて、私の時は「なみだ」でした。涙で撮ってくださいって言われた時に、いわゆる泣くようなシーンで決まりきった形で涙を撮りたくないなって思って、あくびで出てくる涙っていうのが良いんじゃないかって思いました。実は芸大時代に元々書いてあったのが『葬式の朝』の脚本で、そういえばあくびのシーンがあったかもしれないと思ってそれを引っ張り出して来て撮りやすいように変えて。全部知人の家の中で撮らせてもらえそうだったので、私自身もあまり負担がないだろうなと思ったし、自分が最初に撮るには良いんじゃないかなって思った。それで最初になんとなく計算が立ったから、『葬式の朝』を撮ることになりました。 

 

——本作の題材は、実際に経験した話が元になっているそうですね。

 

糠塚私のおじいちゃんが亡くなった時に、線香当番で実際に未来の立場で従姉のお姉ちゃんと斎場に泊まったんですよね。私が大学3年生だったから、あんな中学生みたいな感じじゃないんですけど。実際に夜起きれなくて、行くよとか言われたんだけど、「いい、行ってきて。お線香知らない」みたいな(笑)。なんかピクニックみたいだったんですよ。お菓子食べたりとか、布団敷くところとか。妙に楽しかったんですよね、それが。人が亡くなってるのにすごい不謹慎だなって思いながら、葬式なのに楽しいっていうのが違和感として自分の中にあって、それが基になって書いた話でした。

 

 

キャッチボールをするように作っていきました

 

——糠塚監督は元々、脚本家志望ということなんですが、脚本を書いてる時の映画作りと実際に現場に立つ映画作りでは全く違うプロセスがあると思います。その違いについてはどうでしたか?

 

糠塚:脚本を書き終わった時は、映画が一個完成してるような感じなんですよ。自分の中になんとなく映画一本観たみたいな気持ちがあって。でもそれを別の監督に渡してその人が撮ってくると、「こんなのイメージしてなかったんだけど!」みたいなことが起こる(笑)。自分が監督をやる時は自分がイメージしたものを映画にしていこうとするんですけど、「実際その場所にカメラを置けない」とかそういう現実的な計算が全然立てられませんでした。いわゆる演出みたいなことを一切考えてなくて、自分の頭の中にあるものをどう再現するかぐらいのことしかできないんです。演出なんて難しいこと考えられない。

役者さんが演技して、そこで初めて、私はもっと自然に演技してほしいと思ってるんだって気付いていくこともありました。「そんなオーバーにしないでください」と結構言っていて、自分は何もしてないように撮りたいと思っているんだなとか。そういうのを一個一個理解していく感じでした。

あと、照明の光が柔らかいとか固いとかそういう感覚は自分の中にあるけど、それを撮影・照明を担当してくれた友人に伝えて、彼が一生懸命作るみたいな感じでした。例えばお寿司を食べるシーンは最初すごく暗く作ってあって、イメージしていたのと全然違ったんです。その友人は台本を読んで、ここは泣いている人が出てくる悲しいシーンだから冷たい感じの方がいいんじゃないかっていうことで暗く作ってくれたんですが、私は「これは暗い。私が作りたいと思っている画は明るいシーンなんだ」とそこで初めて自覚しました。それは、「自分はこういう悲しいところでも悲しい一色だけではなくて、楽しいこともあるんだっていうことをやりたいんだ」ということで、作品のテーマに近いことでした。そんな風にスタッフやキャストの誰かがやってくれたことに対してキャッチボールをするように作っていきましたね。

脚本だけ書いている時は、撮ることを前提に考えなくてよくて、壊れたバスとか平気で書くわけですよ。どうやって用意するんだよみたいなのは今は思いますけど(笑)。“タイヤに穴が空いて”とかどうやって撮るんだよみたいな。書いているだけの時はそんなの気にしないで、だってこれ必要だからって書いてたけど、実際に撮る過程になったら、 “電車”って書くだけでもうゲリラ撮影じゃんみたいなことをスタッフが指摘してくれるわけですよね。自分で撮るときはそりゃそうですね、ってなります(笑)。いろんな制約があって、でもそのなかで作ってやっていくということはすごい工夫が必要。ある持ち駒の中でどうやっていくかってことは、嫌いじゃないし自由を奪われたなっていう感じは全然しなかった。多分脚本だけ書いていた時だったら「それだとベストじゃないです」って思ったはずなんですけど、実際に作るってことを前提に考えた時に、その中で最善を撮る、撮った時にたとえそこでタイヤが割れなくてもそれは別にベストを尽くさなかったっていうことじゃないんだなって思うようになりました。

 

 

——“脚本家”と言われる方々の中で、セリフのひとつひとつに作品の想いを込めて、書いてある言葉そのものを大切にする人がいると思います。セリフを現場で変更することはありましたか?

 

糠塚:沢山ありました。ありましたけど、こういうニュアンスでセリフを喋るっていうことの方が頭の中にはっきりあった。脚本を書いている時も、こういうことをただ単に言うってことじゃなくて、どういうトーンで言うか、どういう声色で言うかも想像して書いているんですよね。それは多分、自分が中学高校の時にミュージカル部で実際に台詞を喋ったりしたことがあるからだと思うんですけど。ここは軽い感じで喋るとか、ここは勢いがあるとか想像してるから、役者さんにやってもらった時に違うなって思うんです。自分の中のトーンに全部合わせてもらうような感じでやってました。

 

——自分でも役者をやっていたんですか?ミュージカル部で?

 

糠塚:やってました。喋ったり歌ったりとか役者をやってたから、これはどういう風に喋るものなのかっていうのが頭の中にあって、現場ではそこの違和感を全部つぶしていく感じでした。

 

映画を見た人が映画館を出た後に

世界がちょっと広がったような

感覚になれることが大切

 

——糠塚監督のお話を聞いていて、作品に対する視点や身体感覚としては、かなり演出家に近いところにいるんだなと思いました。その糠塚監督から見て、“監督”というのはどういう役割だと思いますか?

 

糠塚: 空気を作る人かな。空気を作る人な気がします。その場で怒ったり穏やかでいるという態度やあり方も含めて、映画の空気をわかっている人だと思う。その空気に近づけていくために頑張る人って感じですかね。映画の空気ってもう言葉で表せないことじゃないですか。どんなに私がこういう映画にしたいと思って脚本に書いても他の誰かに渡したら全然違うものになる。私の脚本でホラーみたいなのを撮って来られたことがあって、「全然違うんだけど!」って(笑)。でもそういう風に読んで、そうやろうって思ったのはその監督なわけで。

 

 

——なるほど。それでは、脚本家というのはどういう役割だと思いますか?

 

糠塚:(沈黙)……難しいな。

 

——例えば、元々やりたかった脚本家に対する考え方というのは、脚本だけを書いていた昔と監督を経験した今では違いますか?

 

糠塚: 違うと思います。今は、視点を作る人というか、世界を切り取る人というか、こういう風に世界を観ようっていうことを”意志”して切り取って書くことだと思っていて。意志とか意図がきちんとないと出来ないと思うんです。以前は何も考えないで、こういうのが面白そうとか楽しそうって思って勝手に切り取ってできてたんですけど、最近すごく難しいんですよね、それが。考えすぎるようになっちゃったのかもしれないけど。

 

——それは監督をやったことが影響している?

 

糠塚: いや、単純に普段別の仕事で働いているからだと思います。色々やらなきゃいけないことがある中で、やっぱり周りに巻き込まれて自分なりの世界の見方みたいなものが、本当に"意志"していないとどんどん無くなっていくなっていうのは日々感じています。でも逆に自分の外のことを知ることもすごく必要だとも思うし……。

みんなが知っていることを映画にしてもしょうがなくて、知らないこととか気づきとか発見があって、映画を見た人が映画館を出た後に世界がちょっと広がったような感覚になれることが大切だと思うんです。だけど、そんなものを作るってすごいことじゃないか!って最近思うんです。恐ろしいことですよね。そういう意味では脚本家は世界の見方を作る人かもしれないなと思います。

text:深田隆之 photo:中島すみれ