若手監督インタビュー 『二十代の夏』高野徹監督

ここだったら撮りたい映画を実現できるのではないか

 

——まず、『二十代の夏』を撮ることになったきっかけを教えてください。

 

高野:元をたどるとジャック・ロジエやエリック・ロメール、ホン・サンスの映画を思い出します。自分もこういう映画を撮ってみたいという欲望をずっと持っていました。

2013年に伊豆大島へ遊びに行く機会があり、そこでたくさんの豊かさを感じました。自然が雄大というのはありますが、それ以上に島ならではの人と人との距離感に興味を持ちました。僕は一週間ほどゲストハウスに滞在していたのですが、港や温泉など島のいたるところで他の宿泊客とばったり何度も遭遇しました。そしてとても面白かったのが、ある常連客と思わしき方に「今晩、庭でみんなとバーベキューをやろう。道すがら宿泊客に会ったら、スーパーに5時集合って伝えといて」と言われて。島をぶらぶらしているとやっぱり宿泊客とばったり会うので、「今晩バーベキューをやるんですけど、どうですか?」と何人かに声をかけました。5時にスーパーへ行くと宿泊客ほぼ全員の10人が大集合していました。そんなことって東京はもちろん、他の観光地でもなかなか起きないですよね。その時、島の狭さは豊かさだと思いました。そういった人と人との距離感が近い映画、ロジエたちが腐心して撮ってきたバカンス映画が大島で撮れそうだと直感し、企画を立て始めました。

 

 

——『二十代の夏』という映画にとって、最初に伊豆大島という場所に出会ったのが大きいんですね。

 

高野:そうですね。大島での滞在を経て、ここだったら僕が撮りたい映画を実現できるのではないかと思ったんです。

 

 

——撮影合宿という制作形態や伊豆大島というロケ地は、高野監督が自分で選択していった制作のプロセスだったと思います。撮影前の準備段階から撮影中のプロセスはどのようなものでしたか。

 

高野:島の協力者を見つけるところから、この映画の制作プロセスは始まりました。kichiさんという「島と島外の中継基地」の役割を担っているコミュニティスペースがあるのですが、まずは彼らに協力をお願いし、たくさんの島の人や撮影場所の候補を紹介してもらいました。制作準備のため合計で1ヶ月ほど大島に滞在し、ロケハンや脚本執筆をしました。それと並行して、3分のパイロット版映像を2015年8月に制作しました。kichiさんのスペースをお借りして、「こんな映画を撮ろうと思ってます!」という島民の方々に向けた上映イベントを開催し、交流を深めました。こちらの本気度を伝えられたこともあり、「こうやって大島で映画が撮られるのを待っていた。何か協力できることがあったら言ってくれ。」と言ってくれた人もいて何人もの方が手を挙げてくれました。

 

 

——撮影に入ってからは、伊豆大島の人達とどのように関わりながら制作を進めていきましたか?

 

高野:毎日、何かしら島の人に怒られながら撮影していましたね……。制作体制がうまくいっていなかったので、撮影許可などが後手後手になって。でも素直に謝ると、「しょーがねえなあ」と許してくれて、むしろ撮影に協力をしてくれました。島のあたたかさや自由な風土に助けられました。

あとは島でカフェをやっている女性に晩ご飯をケータリングしてもらいました。なかなか自分達で作る余裕はないし、毎回外で食べるのも現実的ではないので、その女性にお願いして。料理がすごく上手で、ロケハン中に僕はその人のファンになりましたね(笑)。島の新鮮な野菜や魚たっぷりのご飯にスタッフは何度救われたことか……。

 

 

あのシーンだけ演技の温度が違うんです

 

——滞在制作の場合、関東近郊で映画を作る時とは制作環境が当然違ってくると思います。撮影合宿という制作形態をとる中で、実際に役者さんとの関係について今までと違った事はありましたか?

 

高野:宿泊に関しては一つの演出手段として選びました。自宅から通いの撮影になると、帰宅した途端にそれぞれ日々の生活があって、映画の世界から日常の世界に引き戻されてしまうと思います。でも、合宿スタイルならば日常というのはなかなか侵入してこられなくなるし、自然と映画のことばかり考えざるを得なくなります。

また、宿泊施設を役者とスタッフで分けました。施設のキャパの問題もありますが、ある種の距離感を持って撮影をしたいと思って選択しました。もし役者とスタッフが同じ所に泊まっていたら、もちろん夜は一緒に飲んでいただろうと思います。飲みの席で築ける信頼関係というのもあるとは思いますがそうではなく、今回の撮影はお互いの仕事を通して良好な関係を築くべき作品だと思っていました。その成果としてなのか、役者は宿に帰るとその日の反省会を自主的にやり、翌日撮影するシーンの本読みをやってくれていたと後から聞きました。スタッフがいたらやりづらかったかもしれません。

そのような反省会や本読みをしていると「これってよくよく考えるとどういうこと?」と疑問点が出てくるんですよね。それを役者同士でディスカッションして分からないことを翌日持ってきてくれて、一緒に考えることができました。こういう体験は僕が今まで制作してきた中で初めてのことでしたね。

 

 

——印象に残っているシーンとして、主人公のカズキと幼なじみのちーちゃんが海を背景に出会い、同じフレームの中で電話(会話)をするシーンは非常に演劇的なシーンにも見えたのですが、そのあたりでも本読みが生かされていたのでしょうか?

 

高野:そうですね。本読みは伊豆大島に行く前に1週間程度、および各シーンの撮影直前に30分以上時間をとるなどしてやっていました。書いてあるセリフを抑揚や感情を込めて読むのではなくて、ただテキストを相手に届けるというやり方で読んでみて、それがある程度できたら現場に行って演じてもらい、その時に出てきた感情をセリフにのせるという方法を取り入れました。

電話のシーンに関しては「主人公の夢」という設定のシーンですが、もともと脚本上では現在進行形の流れの一つとして撮影していました。どうして編集で夢のシーンにしたかと言うと、このシーンだけ本読みとほとんど同じレベルの演技をしているので、いわゆる棒読みのようなことになってしまいました。しかし他のシーンとは全く違う次元の何かが立ち上がっていたのも事実で、あのシーンだけ演技の温度が違うんです。脚本通りに繋ぐとそのカットを使うことはためらってしまうけど、何とか活かすとしたら、例えば「主人公の夢」ということだったらより魅力が発揮されるんじゃないかと発見しました。ちょうど、寝る・起きるというアクションをたまたま撮っていたので幸運にも使うことができました。本読みの全く意図していなかった効果が出ていると思います。

 

 

——それこそホン・サンスの作品に近いものを感じました。福原舞弓さんが一人二役を演じていて、ちーちゃんなのかレイコなのか、あの一連の演技の中で分からなくなる瞬間があって。

 

高野:僕以上に悩んでいたのはヘアメイクのスタッフで、「チヒロ/レイコの二役をいったいどのように差をつけたらよいのか」問題が当初からありました。結局はメイクを若干濃くしたりとかアクセサリーや衣装を変えたりなどの細部を解答としましたが、僕は基本的に同じでよいと思っていました。どちらかよく分からない曖昧さを出したら映画として面白くなる予感がしたので。日常の中でも誰かとそっくりな異性に出会うことってありますよね。でもそれって、もしかしたら自分の見たいように他者を見ているだけなのかもしれません。特に主人公のような若い男性には結構あるんじゃないかと思っています。そういう人間の持つ曖昧さ、傲慢さっていうのは面白いと思っていますね。

 

『二十代の夏』はどうしても

撮らなくてはいけない作品でした

 

——最新作である『二十代の夏』を撮り終えた今、高野さんにとっての映画監督の役割とは何だと思いますか?

 

高野: 正直よくわかっていませんが、思いつきで言うなら「これから撮ろうとしているシーンについて役者と一緒に考えること」ですかね。演出側の意図とは違っても役者がそのシーンを理解出来ているのならその解釈でやればいいと思っています。言い換えると、役者がシーンを理解できていない時には演出側の答えはすぐに出さないで、一緒に考えることが重要だと思います。そういうときに限って思いもしないことが起こるような気がします。以前から「役者に寄り添うこと」ってなんだろうと考えていて、ある役を役者さん本人に近づけていくことなのかなと短絡的に考えたこともありましたが、それだけではどうやら不十分のようで。今回もまだ答えには至っていないけれど、一緒になって徹底的に考えることが「役者に寄り添うこと」へのステップなのではという実感はあります。

 

 

——『二十代の夏』に限らず高野監督はかなりコンスタントに作品を発表していると思います。高野監督はなぜ映画を撮り続けているのしょう?

 

高野:なんででしょうね(笑)。なんで生きてるのかって聞かれているような気がします。ある映画を撮り終わると人に迷惑をかけたり大変な思いをするので、もう映画なんか撮らないと思うんですけど、半年くらい経つと映画を撮らないとやっていられなくなるんです。

 

——高野監督にとっての“映画”は生きていることと強く結びついている。

 

高野: 映画を観ることで人生について多くのことを学べます。自身が影響されやすいということもあるんですけど、ある映画を観たらこの映画の主人公みたいに生きたい・こんな場所に行ってみたいと思ったり、映画は自分の人生を豊かにしてくれるような気がしています。そして撮ることは今言った話の延長線上にあるように思います。ある映画を観てもすべてを受け取れるわけではなく、むしろ気付けなかった要素の方が多い。しかし撮ることを通して捕まえ直せるものってかなりいっぱいあるんです。

僕にとって『二十代の夏』はどうしても撮らなくてはいけない作品でした。これを撮らないと次に進めないというか。自分が日々疑問に思っていたり、どうしても分からないことは、いくら自分の頭で考えても解決しないし、参考になるような本を読んでも答えなんて書いてありません。だけど自分で撮ってみると、「ああ、こういうことだったのか」と目の前に風景が広がる瞬間があるんです。自分が悩んでいたことの原因、本質は何かを、映画を撮ることで自分から切り離して、映画を通して考えることができるのだと思います。

 

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text:深田隆之  photo:太田千尋