第三回 海に浮かぶ映画館 2日目 アフタートーク
2015年12月5日
登壇 :諏訪敦彦監督(トークゲスト)
五十嵐耕平監督(『夜来風雨の声』)
稲葉雄介監督(『君とママとカウボーイ』)
柏屋拓哉監督(『カゲンミ』)
聞き手:深田隆之(『海に浮かぶ映画館』主催)
―諏訪監督との関係―
深田 どこから話を始めようかとずっと思っていて、結局結論が出ないままこの場にいるんですけれども。少しだけ関係性を説明をします。僕と柏屋が東京造形大学の映画専攻の同期で、二つ先輩に稲葉さんと五十嵐さんがいらっしゃって、その当時教えていたのが諏訪さんという形になります。
諏訪 教えた覚えはないですけどね。
深田 言うと思いました…(笑)。先ほど仰っていましたけど、稲葉さんと五十嵐さんの作品が双子みたいな関係であることなども僕や柏屋は知らなかったので、諏訪さんは当時どのように感じていたんだろうなと。
諏訪 その当時のことですか…。五十嵐君の作品、僕はほとんど関与していないですよね。
五十嵐 そうですね。
諏訪 全く関係なくできている。「はい、できました」みたいな。
五十嵐 撮って、できたっていう時に初めて見せに行ったんですよ。
諏訪 稲葉君の作品も途中のプロセスはほとんど知らないんですよね。
稲葉 そうでしたね。
諏訪 この二人はあんまり(教えを)必要としていなかった。
深田 それは。
諏訪 自分たちで勝手にやっていたというか。
深田 じゃあ途中経過は見ていなかった。
諏訪 見てないですね。できましたって言いに来るだけで。
五十嵐 相談もしたことないです。
諏訪 どういう風に作っていたかもその時は知らなかったし。
深田 じゃあ(学校の作品)講評の時とかも。
諏訪 講評もしていなかった…。
稲葉 いや、講評はしていただいていましたよ。
一同 (笑)
諏訪 稲葉君の卒業制作はね。
稲葉 そうです。
深田 そうなると過程を知っているのは『カゲンミ』。
諏訪 『カゲンミ』はね、過程は知っているけど、結果は知らなかったんだよ。僕が大学にいられなくなったので。
柏屋 すみません。
諏訪 完成しなかったんですよね。
柏屋 はい、そうですね。
諏訪 ただ、柏屋君は大学院に進学で、そこで一応どういう映画を作るのかというやり取りはあったので、どういうことをやろうとしているのかっていう報告は受けていました。
深田 撮影時期と完成時期がすごい離れていて。だいぶ前に撮影をして、完成は今年?
柏屋 完成はね。
深田 撮影から編集の間が空いたっていうのは?
柏屋 作っている時は冷静に見られなくなっちゃって。間をおいて、編集をちょっとずつ進めるっていう風にやっただけなんですけど。
諏訪 どういう風にしていいか分からない。見えなくなったというか。
柏屋 そうですね。全然という訳ではないんですけど、これでいいのかっていうのが。自分が自信を持って言えない形だったのでちょっと間が空いちゃいましたね。
―切れかかる世界との関係と、監督自身が出演すること。
深田 3作品の通し券で観られている方も結構います。(諏訪さんも)全部観ていらっしゃいますが。
諏訪 全部見るとどうなんでしょうね。
柏屋 俺のだけ浮いているんですかね。
諏訪 どうなんでしょう。三本ひとまとめに話すことはできないんですけどね。話せることもあるなと。かなり特徴的な部分はいろいろあるよね。
柏屋君(の作品の登場人物)は病院で働いているとか、『君とママとカウボーイ』(の登場人物)は市場で働いているとか。夜しか仕事していない、お金がないという、ぎりぎりのところで生きるための最低限度の仕事をするのか、しないのか。それぐらいにしか行動の指針っていうのはなくて。カーテンを買うのか、(そのために)働くのか究極の二択みたいな中で、この二人(柏屋、稲葉の作品の登場人物)は一応は働いているけれど、それ以外のものがないっていう。世界との関係というものがほとんど切れかかっているようなとこがあって。何かのために行動するということは極力ゼロに近づいているみたいな状況がまず描かれている。それが非常にその当時のみんなの身近な現実で、そこからまず映画を立ち上げていくっていうところは共通していたかな。身の回りのよく知っている自分たちの現実っていうものから始まるんだけれども、そこからどうやって飛躍するのか、それぞれ映画の中でのみ可能なある種の飛躍みたいなものを、模索しているというか。(模索している)ようにも見えなくもない。敢えて共通ということで言えばね。
例えば日本以外の状況を考えた時に、この現実ってかなり特殊な状況でもあるよね。稲葉君はタイとの合作(『アリエル王子と監視人』)とか、五十嵐君も海外の映画祭とか行って日本から出る経験というのはあったと思うんですけど。ここまでテーマというか、問題となっている主題みたいなものがほとんどない。そういう状況が描かれている、そういう登場人物が描かれているっていうのが、まずすごい特殊なことではないかと。それはもちろん悪いことではないですよ。悪いことではないけど、すごい特別なことなんじゃないかという気がする。
あともう一つはみんなそれぞれ自分が(自分の作品に役者として)出ているってことですかね。
深田 そうですね。
諏訪 これ結構大事なことかもね。どうですか。(役者は)誰でもいい訳ではないでしょ。
柏屋 そうですね、僕は。
諏訪 五十嵐君の場合はしょうがなく出ている?そういうわけではない?
五十嵐 そんなことないです。僕は、免罪符ですね。
諏訪 自分も同じ目に合うってことですね。
五十嵐 そうですね。
諏訪 みんなをひどい目に合わせるから。
五十嵐 はい。だから一番よくない役で死んじゃう。
深田 稲葉さんは?
稲葉 僕の映画の場合は、先程諏訪さんが仰っていた、その当時生きていた現実に即した映画みたいなことに作っていくうちになっていったんですよね。僕は実際にあそこ(劇中の市場)で働いてみた結果、あの乗り物に乗るだとか、ああいうことを演じられるのが自分だけだったんですよね、もはや。状況に迫られて出るっていうことなんですけど。ちょっと距離を置いて描いているような気もしつつ、結局自分自身を描いているみたいなところはありましたね。
諏訪 ジョージっていう役は五十嵐君の映画(『夜来風雨の声』)に出た後だったよね。
稲葉 そうですね。
諏訪 五十嵐君の映画に出た時に作られたキャラクターに近い。その延長みたいなところはやっぱりあるの。
稲葉 あまりそういう意識はなかったと思います。
諏訪 最新作に引き継がれているというふうに見えますけど。それはどう?
稲葉 そうですね。作っているときはあんまり意識しなかったんですけど。今日みたいに人前でお話させていただいた後に、「あの王子と監督はすごい似ているね」みたいなことを言われるんですね。だからなんとなく、自分自身が反映されていたんだみたいな意識は最近持ち始めていて。あと『君とママとカウボーイ』のジョージっていう役柄と、新しい映画(『アリエル王子と監視人』)のアリエル王子という役柄は良く見るとちょっと似ているんですね。怪物っぽく見える感じっていうんですかね。なんか引き継がれている気はしていますね。
諏訪 例えば五十嵐君の映画で印象に残るのは、稲葉君が演じた男の内面のない笑顔というか。なんで笑っているんだろうかという。
稲葉 何考えているか分からない人ですよね。
諏訪 分からない。分からないっていうことを、あの笑っている表情で見せるっていう。その笑顔はちょっと印象に残りますよね。それは(『君とママとカウボーイ』の)ジョージに引き継がれている面もあるだろうし、アリエル王子ってのは常に笑っているわけじゃないですか。あれも笑っているけれど彼の内面自体は笑顔には反映されていないっていう、人物造形になっていると思うし。
稲葉 そうですね。
諏訪 そういう意味では、つながっているんだと思いましたけどね。
稲葉 『アリエル〜』をやった時はかなり意識的にそうしたような気がします。で、諏訪さんの指摘を受けて、そうか『夜来風雨〜』から来ているのかと、今気が付くぐらいで。そんなに意識はしていないんですよ。
諏訪 どう、五十嵐君?
五十嵐 撮るときにそういうことを狙ってはいなくて。カメラを向けてそこで起こってしまったことをある意味肯定するために、次のカットのことを考えたり、全体の事を考えたり、(そういった)作り方をしています。積み重ねていって、最終的にそれが映画になるっていう風に考えていたので、ここで最初に稲葉君が笑っていて、その奥に何も見えないっていうのは、そこで起きてしまったということですよね。なので、稲葉君ってこうだよなと思って、こうしてくれって言ったわけではないです。あ、こうなんだなっていう。稲葉君っていうのは、こういう人なんだっていう。全部一回こっちが受け取って、さあどうするかっていう。
稲葉 確かにそういうことを言われてやった記憶はないですね。
諏訪 たぶんそうなんでしょう。台本はなかったわけでしょ。全く台本がなかったっていうふうには見えないけどね。非常に構造をはっきり持っている映画ですよね。撮影中に起きてしまったことなんだって言いたくなる気持ちはよくわかるんですよ。実際そういうふうに撮っている訳だから。でも映画として成立させてしまった以上、そうも言えないよね。それ言うと僕に責任ないです、みたいになってしまう。
五十嵐 うーん、そうですね(笑)
諏訪 現実的にはそうなんですよ。たぶん映画ってそういうものが許されてしまう。狙いなんかないんだよ。そうなっちゃいましたとか。それはその人がやったんですとかね。身も蓋もないような状況ってのはそういうふうに付きまとうわけで。それが、それでも映画になってしまう。それをかなり極端に五十嵐君はやっているところはあって。
稲葉 正確に言うと、「それは狙いがないですよ」っていう狙いだったみたいな。そういうことだった気がするんですけど。
諏訪 それ、嫌なんだよ。周りの人にとってはね。
一同 (笑)
諏訪 柏屋君のもかなりそういう意味では、キャスティングっていうか、誰がそれを演じるのかってまあ非常に重要なんでしょ。むしろその人がいたからそういう内容が作られていく感じ。
柏屋 そうですね。そこがかなりあります。
諏訪 役者さんは?
柏屋 使ってますね。使ってますけど、役者さんには極力変に演技をしないでくださいみたいなのは、直では言わないですけど伝えています。
諏訪 お母さん(役)とかは。
柏屋 お母さん(役)はどっちのお母さんですかね。
諏訪 死んじゃった(方の)。
柏屋 あの人は役者さんではないです。ちょっと紹介してもらって、最初は役を設定していたんですけど全然演技ができなくて。何回かテイクを重ねて。これは無理だなって思って一応(本人のキャラクターに)寄せたっていう感じで。それがすごいよかったんですけど。個人的には。
―弱い人たちがシステムの中で映画を撮るっていうのは非常に難しい。
柏屋 東京造形大学って先輩の作品を観る機会があるじゃないですか。衝撃的でしたけどね、やっぱり。単純に観たことがなかったんですよね。ああいう映画を。こんなふうに映画を撮っていいんだって。それはアマチュアっていうか、まだプロではない(人が)。
深田 何年の時に観たの?
柏屋 一年の時には『夜来風雨〜』は見ていると思う。
諏訪 衝撃ってのは、なんだったんでしょうね。映画だと思っていたものと、ずいぶん違うって…。
柏屋 そうですね。確実に映画を観た感じはしたんですけど、何が面白いのかと言われると、かなり言葉にするのが難しい。言えない。今まで観てきたものはやっぱりどこかちゃんとお芝居があって、ストーリーがはっきりしていて。強いものっていうか、強い演技みたいなものを見ていた気がするんですけど。これはちょっと違うなっていう。
諏訪 強い、弱いっていうのは。
柏屋 強い、弱いっていうのは結構あるとは思います。
諏訪 (先輩の作品は)究極的に弱い監督が作った。そうでもない?
柏屋 いやー、かなりハートは強いと思いますけどね、お二人(五十嵐・稲葉)は。
深田 でもよく、弱い監督って諏訪さん仰ると思うんですけど。
諏訪 なんか、ペドロ・コスタが最近言うんだよね。
深田 あれはペドロ・コスタが最初に…。
諏訪 大学に来た時、言ったよ。
深田 言ってました。
諏訪 僕たちは弱い監督ですよ。強い監督っていうのはジョン・フォードとか、小津安二郎とか、溝口とか。未だに強い監督ってのはいるんでしょうけど。映画製作システムっていうのが、強い監督を想定しているわけですよ。だからシステマチックな映画では監督っていうのが力を持っているべきだとみなされる。こういう弱い人たちがそういうシステムの中で映画を撮るっていうのは非常に難しい。
深田 ペドロ・コスタが言う「私は弱い監督なんだ」という言葉って、ちょっと疑っちゃう部分もあるんですよね。その弱さのニュアンスが。
諏訪 ペドロ・コスタは弱くないよね。
深田 弱くないですよね。
諏訪 強靭だと思いますよ。
深田 強靭、まさにその言葉が浮かんだんですけど。強靭さがやっぱりあるじゃないですか。
諏訪 みんなそれぞれあると思うよ。もちろん五十嵐君の映画も強靭だし。稲葉君の映画も強い、ある意味強い。柏屋君のも強いよ。
柏屋 いや、俺は普通に強いと思って撮っていますからね。
諏訪 そうだね、一番強がっているよね。
柏屋 強がっています。
諏訪 この三本の中ではね。
柏屋 ゴリゴリに強がっています。
諏訪 これでどうだっていうのはあるよね。
柏屋 二人みたいなやり方は俺には無理だなって思っていたんで。
諏訪 そういうところはあるかもしれないですよね。リアクションとしてね。そういう映画を繰り返すわけにもいかないわけでね。どういう風にやっていくか。世界に対して、その受け身ではなくというところを見せてやろうって。
柏屋 そこから始まったんで。
諏訪 だからちょっと違うんだよ。他の二作品とは。
柏屋 そうですね。だから、この並びだとすごく違和感を覚える。
諏訪 それが映画的な強靭さとどういう風に関係していくか。難しいところですね。それはなかなかわからない気がする。ペドロ・コスタが言う弱さが何なのかっていうのは簡単には言えない。ただ彼はやはり自分が一つの世界を自身の力だけで描きだしていくという風には考えていない。ある面では。ただ、できたものが非常に強いっていう。決して弱い映画ではないですね。非常に強い映画なんですけど。強い監督ではないって言っているだけで。
深田 そうですね。間違いなく強いですね。
諏訪 強い、弱いっていうのは何なのか。造形大学においてはさっき(作品制作に関して)ほとんど話をしていないって言っていたし、それは偶然なのかもしれないけど。その頃造形大学で考えていた映画っていうのは、そういう思いがリンクしていたところはすごくあったんですね。君たち(五十嵐・稲葉)の世代は特に。
この二人はグループになってそれぞれ役割を交換しながら、誰かの映画を誰かが手伝ったり、またこっちを手伝い合うみたいな(形で)一緒に映画を作っていく。だから兄弟みたいな映画になってくる。そういうことを肯定しようと。つまり、そういうのって所謂プロフェッショナルな映画教育では否定されるわけだよね。そんなの身内じゃんっていう。なーなーでやっているじゃんみたいなね。そういう知っている友達同士の関係っていうのは、プロじゃないっていうか、甘える関係じゃないかみたいな感じで。それがアマチュアだと言われる。そのことがむしろ大事なんじゃないだろうかっていうことを考えていたし、講評会かなんかでもそういうことは発言したかもしれないですね。それはある特別な人間が、特別な能力を持っている人が、映画を作るっていうことを認めないというかですね。そういうものではないんだっていうふうに、映画を考えてみようよっていう。そういう時だったんだと思います。それがたまたまなのかもしれないですが、あの頃の作品にはかなり色濃く出ていたのかなと感じましたけど。
―映画に映っている鮮明さって、最初に撮った映画が一番な気がするんですよね。
深田 先程、稲葉さんのアフタートークの時に、(『君とママとカウボーイ』の)ジョージがずっと黙っている役で電話でも言葉を出さないっていう演出を、今はできない、やらないみたいな言い方をされていて。
稲葉 やらない。
諏訪 やらない?
稲葉 やらないですね。
諏訪 あそこではしゃべってもいいってこと?
稲葉 なんでしょう。しゃべってもいいけれど、聞かせないとか、なんかまた違う問題な気がしたんです。演出上の問題で。電話して、電話なのに話さないって、ちょっと度が過ぎているよねっていう。違うものとして見えちゃうよねっていう。
諏訪 演出が見えちゃうってこと?
稲葉 そうですね。そういう風にしようとしている。そういう人に見えちゃう。電話だけどしゃべらない人なんだっていう。そのことを今は絶対にやらないだろうと思います。
深田 学生の時に撮っていたものと、今のスタンスと。その違いっていうのは単純に面白いなと思って。
稲葉 なんとなく、あの当時作られていたもの『君とママとカウボーイ』だとか『夜来風雨の声』だとかって、もう5、6年作ってから経っているので、今日ちょっとだけ見て、何となく距離を感じるんですよ。それがすごい新鮮な経験でしたね、今日は。何だったんだろう。
諏訪 距離ってどういうことだろう。過ぎたことっていうか、終わったことっていうか。前の事っていう感じですかね。
稲葉 そうです。もう経験し終えてしまったことを見ているような感じがしました。
諏訪 僕は自分が学生の時に作った作品って、三十年前になりますね。
稲葉 どんな気持ちで見ますか?
諏訪 見ている時ってそんなことないんですけど。結局それはそれ以上のものにならないというか。そういう感覚が実はあるんですよ。
柏屋 それ以上にならないっていうのはどういう?
諏訪 その後作った映画がその時作った映画以上のものにならない感じが…。分かる?
五十嵐 だいぶ分かります。面白いつまんないっていう問題ではなくて、自分がいて、そこで生きてきたわけですよね。そこで生きていた自分の身の回りの見えている世界と、もっと外にある見えない世界もあると思うんですけど。それの鮮明さというか、映画に映っている何か鮮明さって、最初に撮った映画が一番な気がするんですよね。画面に定着しているというか。で、その後撮ってはいるんですけど、一番最初に撮った映画より色濃く定着はしないって感覚がすごいある。
稲葉 なんて言うんだろう。それこそ自分たちが当時作った映画もそうだし。こういうのって卒業研究で作った映画に一番多いんだけど。これって一回きりなんだろうなっていう気持ちを感じるんだよね。その感じかね。言おうとしていたのは。
諏訪 それが一回きりかどうかは分からないんだけど、世界との距離感みたいなものが変わるっていうことですかね。ある距離感の中で最初に映画というものに投げ入れたみたいなところがあるんですかね。
五十嵐 はい。
諏訪 それは映画と世界と自分との関係。まだ不確かであるにも関わらず、そこにある一つのイメージを立ち上げたっていうか。そういうことっていうのは、そのクリアさなの?
五十嵐 はい。全部がだいたい初めての経験というか。自分の体験としての新鮮さとかが、そのままフィードバックされるというか。映画を撮るという行為で世界を見るということが。
諏訪 だからその後映画を何十年か後になって作り始めて、しょうがなくというかですね、まあ何本か作っていく中で常にやっぱり最初に映画を作るよう(な感覚)にしよう、したいって思うわけですよ。だからできるだけ、今までのやり方が通用しないような状況に持って行って。それで最初の映画の時は台本なしとかいってやる。自分でもコントロールできない、自分でもどうなるか分からない状況に持っていって、こんなの映画になるのかっていうところでやろうとするんだろうけど。それを人為的にやったところで、そういう映画にはならない。だから、もうしょうがないですよね。
五十嵐 そういうものだなっていう。
稲葉 しょうがないんですね。
諏訪 それでも続けるかどうかっていうことなんじゃないんですかね。
―続けることが大事だよねっていうふうにも思っていないんですよ。
深田 続けているっていうことで言うと、先輩お二人(五十嵐・稲葉)は制作を続けていて、柏屋も大学院を出て作品を作り続けています。
柏屋 もう2、3年ぐらい。
深田 作り続けているっていうこと自体がすごいなっていう。単純な感想になってしまうんですけど。継続ってイメージが中々できない。
柏屋 実際作ること自体はそんなに難しくないのかなって個人的には思っていて。どういう形かによるとは思うけど。
諏訪 僕はね、続けることが大事だよねっていうふうにも思っていないんですよ。やめてもいいと思うよ。
稲葉 なんでしょう。努力して継続しようだとか、そういう気持ちで作り続けているわけではないですね。少なくとも。別のことやってもいいと思うし。同じ気持ちを持って。
諏訪 それは造形大学の時に考えていたことだと思う。みんなが卒業してずっと映画を撮り続けていることが良いことで、もう映画を撮らなくなったら良くないこととは思っていないですよ。映画っていうのはたぶん、映画を撮る行為以外のところにいろいろな局面に映画があるはずだよねって、そう考えたいからそういう映画を肯定しようとしていた。撮り続けている人はしょうがないから撮り続けているんだよ。そうじゃない?
稲葉 なんでしょうね。究極的な話をすると、幸せになりたいとか、そういう気持ちなだけであって。しょうがないって感じかもしれないですね。
諏訪 映画を続けるのは難しい面がたくさんありますよね。一人ではどうしようもないところがやっぱりあるし。いろいろな人を巻き込みながら、あるいは資金も必要だったりとか、そういう具体的なハードルっていうのはあって。且つ別にその自分が映画を撮らなくても、映画界は困らないわけで。日本って作品が多くて、一本増えても減っても誰も困らない。続けること自体が非常に困難だという問題はもちろんありますよ。
柏屋 まあそうですね。ある側面では。
諏訪 でも柏屋君が言ったみたいに誰でも撮ろうと思えば撮れるよねっていう面もあるしね。必ずしもそれは続けていればとは思わないんですけど。でも頑張って欲しいとは思いますよ。こういった映画が存在して欲しいとは思うよね。だからこの前、稲葉君はタイとの合作を撮ったじゃないですか。それは自主映画とは言えない、地方の地方再生的な資金援助があって。熊本が舞台、且つタイとの合作という形で映画を成立させていく。そこでは所謂人が映画だと思っているものをやっぱり前提にしなくてはならない。
稲葉 そうですね。まず前提としてすごくフラストレーションみたいなものはありますよね。
諏訪 どういうフラストレーション?
稲葉 まさに諏訪先生が仰った、前提として人がこれを映画だと思うような映画にしなくてはならないのだっていう。その枠組みにまずフラストレーションを感じますよね。一歩躓きますよね、そこで。とはいえ幸せな環境でやらせてもらえたとは思っているんですけど。
諏訪 そういう中でもぎりぎりのとことで成立させていく、というのは一つのあり方としてやっぱり頑張って欲しいなとは思いますけどね。
稲葉 はい。
諏訪 逆にヨーロッパからアーティスティックな資金をもらうと、普通だと怒られちゃうみたいな。
稲葉 そうなんですね。
諏訪 通らなくなっちゃう。
稲葉 ああー。
諏訪 普通の脚本みたいなものだと、それじゃあ通らないね、みたいな話に。
深田 それは助成金事情という。
諏訪 例えば昔ヴィム・ヴェンダースに会った時に、ヴェンダースはある時期からアメリカに渡って所謂作家性の強さみたいなところをどっちかというと捨ててったところがあって。彼ははっきり疲れたって言っていたね。ヨーロッパにおいて「いい映画を作る」っていうのは、いかに人と違う映画を作るのかっていうことなんだと。アメリカにおいて「いい映画を作る」っていうのは、いかに人と同じようなものを作るのかっていうことなんだ。それもいかがなものかとは思いますけど。人の個性を競うっていうことにすごく疲れたんだろうなと思いましたけどね。
稲葉 どっちがやりたいという訳でもないんですよね。人と違うものが作りたいだとか、そういうことでもないし。作家性を捨ててみんなが映画だと思うものを作りたいわけでもなくて。ただ「作りたい」みたいな話なので。今その話を聞いてそうなのかっていう。
諏訪 まあ自分にできることをやるしかないんですよね。