若手監督インタビュー 『終わりのない歌』甫木元 空監督

ホームビデオと言いつつ、父に演出されているようでもありました

 

——まず『終わりのない歌』の制作プロセスを教えていただけますか?

 

甫木元:多摩美術大学の卒業制作では、百万規模の劇映画を作る先輩の姿を見ていたので僕も最初は劇映画を撮ろうと思っていたんですけど、いざ四年生になると学生映画を撮れるのはこれで最後なんだなっていう思考になっていったんです。今しかできないことは何かって考えた時に、父親が死んで一年という事もあり、自分の家族としか見ないような映画を撮ってもいいんじゃないかという気持ちになりました。究極的に言えば、自分のために作るような映画を撮るのも最後だなって。

 

 

——『終わりのない歌』では昔の甫木元家が映っている実際のホームビデオを使ったシーンと、監督が新たに撮られたフィクションシーンが入り組んで構成されていますよね。

 

甫木元:僕の家族はホームビデオをよく見返す家族だったので、記憶に残っているものが映像として一番良い素材だという考えが前提としてあったんです。だからホームビデオを観るより先に、新しく撮るフィクションシーンから制作しました。 いかんせんホームビデオの素材は100時間以上あったので(笑)。

自分自身の話って自分に酔ってしまう恐れもあるじゃないですか。だからフィクションシーンではなるべく無機質なものに削ぎ落としたかったというか。ホームビデオだけの構成だったら現在の自分が登場しないと多分成立しないと思ったんです。でも現在の自分をどう登場させればいいのかドキュメンタリーとして全然わからなかった。今の自分の日常を撮っても、それは自分の目線じゃないというのがあったんです。映画を撮るために意識的にカメラを持っている感じがあって。ホームビデオを撮っていた父はそういうのを全く意識せずに撮っているので純粋な父の目線になっていると思うんです。

あと、ホームビデオって、例えば5分だけ映像を抜き取ってもなんとなく人間関係が分かるんですよね。画面に映っていなくても遠くから聞こえてくる声だけで不思議と誰だか分かるんですよ。だからホームビデオの前半では父親を見せないって決めていたんです。ホームビデオは父の目線、父の目の映画って考えてて、それがだんだんと今の自分が父を観ているような後半になったらいいなって。

 

 

——亡くなったお父様が撮られたホームビデオを編集していくことに対してどんな思いがありましたか?

 

甫木元:極端なことをいうと、この作品は僕の作品じゃないと思ってて。僕の父親は舞台の演出家だったんですけど、編集点を言われている感じなんですよ。ホームビデオの中で子供の顔からカメラを横に振って母親の手に寄るっていうシーンがあるんですけど、それが「お前ここで切れよ」という暗示のように感じて。ホームビデオと言いつつ、父に演出されているようでもありました。だからホームビデオのシーンは父の興味が本当に行き届いている瞬間だけを切り出して編集しました。

 

 本当は何も終わってなくて地続きなんじゃないか

 

——本作において前半と後半での視点の移動は強く印象に残りました。甫木元監督は“カメラの視点”というものをどの程度意識していますか?

 

甫木元:それは作品ごとに変わるんですけど『終わりのない歌』に関して言うとホームビデオは父の目線、ホームビデオじゃない部分のカメラは僕の目線になるようにしています。 舞台みたいに自分から少し離れたところからもう一人の自分が観ているような。自分と死者との距離感が当時はそういう感覚だったんですよね。

 

 

——死者との距離感という話が出ましたが、『終わりのない歌』を観た時に、"忘れる"ということを肯定しているようにも感じました。過去にあったことを忘れてしまうことに関して、監督自身はどう考えていますか?

 

甫木元:物事を忘れていくという事は今の現在に順応していくということじゃないですか。今現在を安定化させるためのものと考えているので忘れるという事に関してはあまり良く思っていないというか、怖い事だなと思っています。死者との別れに関しても何かがそこで断絶して終わるような感じがしてしまうものなのですが、だけど本当は何も終わってなくて地続きなんじゃないかなと思っています。始まり/終わり/現在/過去って言葉で分けられているようにも感じますけど、違うんじゃないかなって。こういうことって作った後に大体気付くんですよね。

 

 

——『終わりのない歌』はホームビデオを入れようとした段階でいわゆる一般的な劇映画から逸脱しようとしている意志を感じるのですが、 "映画"というものをどのように考えていますか?

 

甫木元:監督の中には、こういう事を伝えたいというメッセージ・テーマがまずあって、映画を撮って、そのことをダッて言って終われる人もいると思うんです。だけど、自分の場合は分からないから映画を撮ってる。最初はキーワードだけが断片的に組み込まれている状態で、それが映画になった後で自分の中でこういう事だったのかもって思うんです(笑)。

ある程度明確に伝えたいものがあって、それを誰かに言わせて終わりっていう作品もいいと思うんですけど、映画を観終わった後に自分で想像できる映画が僕は好きなんですよ。監督は、本当はこれを伝えたかったって言わなきゃいけないんだと思いますけど、今のところそうはなってないですね(笑)。

 

『終わりのない歌』を撮って思った死者との向き合いかた、

その後の話をやっとフィクション化できた

 

——新作の『はるねこ』に関してはどのような考えをお持ちですか。

 

甫木元『はるねこ』と『終わりのない歌』に関しては僕自身の中で地続きなんです。誰かが死ぬということに関して、そしてそこからもっと大きなものをとらえるために一から脚本を書いたのが『はるねこ』なんです。死んでしまった人とどう向き合うか。『終わりのない歌』に関しては全部自分の話なので、『はるねこ』では人が死んだということに関してまるっきりフィクションでやったらどうなんだろうって感じですね。これが伝えたいんですって文字化できるものだったら映画にする必要は無いんじゃないかと思っていて、映画を撮ってしばらくしたら「こういう事がやりたかったのかな」ってわかるくらいの方がいいかなと思ってます。 『終わりのない歌』ができていないと『はるねこ』は撮れていない。『終わりのない歌』を撮って思った死者との向き合いかた、その後の話をやっとフィクション化できたというか、やっと脚本にできた感じなので『はるねこ』と『終わりのない歌』は繋がっているところがあると思います。

 

 

※甫木元空監督の最新作『はるねこ』は12月17日(土)から渋谷ユーロスペース他、全国順次公開。

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text:深田隆之  photo:太田千尋