第三回海に浮かぶ映画館 1日目 アフタートーク

2015年12月4日(金)

登壇 :神保慶政監督(『映画に火をつけて』)

    鋤崎智哉監督(『バイバイ、おっぱい』)

    日原進太郎監督(『パン屋の息子』)

聞き手:深田隆之(『海に浮かぶ映画館』主催)


 

登場人物がカメラの方を向くっていうのをやりたくて。―『映画に火をつけて』

 

神保 3年くらい前に映画学校に行っておりまして。卒業後、何か1発目撮るかということで割と気張らずにやりたいことをやりました。白黒でやってみたいというのと、登場人物が映画の中にいることを自覚しているという演出と、音とか映像とかいろいろな実験をやってみた作品です。撮影1日、予算1万5千円とかそういう感じで撮りました。

 

深田 ちなみに出演されていた方というのは役者さんですか。

 

神保 映画の中にいることを自覚している2人が役者さんで、店員は映画学校の同じコースにいたキャラの濃いクラスメイトです。

 

深田 なるほど。自分の周りの友人で作品を作っていったという。

 

神保 そうですね。なので、映画学校出たてな作品というか。それが経緯と言っていいのかなって感じですね。

 

深田 今、神保監督はCO2の助成金であったり、劇場公開作品も撮られていますが、この作品はかなり初期の作品になりますか?

 

神保 そうですね。長編となるとああいう訳わかんないことはできないんで、その辺についてはあんまり余計なことを考えずにやりたいことをやっていた時の作品です。

 

深田 なるほど。

 

神保 だからこそああいうちょっと滅茶苦茶な感じになったと。

 

深田 いわゆるちょっとメタというか。

 

神保 そうですね、メタ…。ゴダールが僕好きなんで。どうしても登場人物がカメラの方を向くっていうのをやりたくて。やっぱりゴダールってすごいなと思いました。カメラを向かせるのは難しくて、どうしてもわざとらしくなってしまう。いまだにカメラの方、向かせたいですけどね。

 

深田 なるほど。いまだにやりたいんですね(笑)。

 


 

パン屋の息子として生きた30年間 ―『パン屋の息子』

 

深田 この作品はしっかり物語がある映画だと思います。どのような経緯で制作されたのでしょうか。

 

日原 タイトル通り、僕はパン屋の息子なんですけど。

2年前に大阪の(実家の)ベーカリーショップロンドンというパン屋が、店仕舞いをすると母親から連絡がありまして。最初はまあそうかと思っていただけだったんですけど。しばらくして、周りの地元の友達が、SNSで騒ぎ始めまして…。そういうのを聞いていくうちに、なにかこうパン屋の息子で30年間くらい生きてきた自分の存在というか。アイデンティティみたいなものがなくなってしまうんだなと思い始めて。とにかく撮らないとなっていう気持ちが膨れ上がってきて、親には撮らなくていいと言われたんですが、押し切って撮ったという感じです。結局なぜ撮ったのかというところは自分の中でもあんまり分からないまま始めました。

 

深田 撮りながら見つけるという。

 

日原 まあ見つかってないですけど、何か残したいなという。自分の生きてきた場所というか、親父の思いというか。自分が親父の仕事を継がずにまったく別の事をしているということとか、親父が作ってきた家族というものが一端終わること。僕がまた新しい家族を作っていって、大黒柱というものが僕に代わっていって…。僕が脛かじっていたものが、次は助けていかないといけないんだなっていうこととか。いろいろな思いがあるんですけど。

 

深田 ロケ地はすべてご実家?

 

日原 そうですね。パン屋のシーンは全部自分の実家です。実際撮影していた時には店仕舞いした後だったんですけど。撮影の時だけちょっと開店をしてもらうようなやり方でした。

 

深田 地元のお友達が集まるとかは…。

 

日原 それは集まらないですね(笑)。自分の地元の中学校とかの僕の知らない10年くらい後輩とかが「店やってるー」って来てましたけど。おかんが撮影している時に使っていただいぶ不味いパンとかあげてました。生地とかもずっと1か月くらい寝かしていたやつなんで(笑)。

 

深田 劇中に作文などが出てきたと思うんですけど、その中にあったパンが嫌いとかは日原さん自身が持っている感覚なんですかね。

 

日原 パンは嫌いだったんですよね、当時は。今はけっこう好きですけど。

 

深田 今っていうのは。

 

日原 今はパン好きなんですよ、サミットとか(笑)。親父の焼いているパンがあまり好きじゃなくて。でも、すごい悲しいじゃないですか。あまり言いたくないんでけど。毎日朝パンが出るというのが、苦痛で仕方がなくって。

 

深田 小さい頃は。

 

日原 そうなんですよ。遠足行ってみんながお弁当食べている中、僕パンなんですよ。で、パンは食べないと拗ねて(笑)。パンをずっと睨んだままで記念写真に写っているという(笑)。

 

 

 

 

脚本を書き始めた瞬間にもう志賀さんだったんですよ。

 

深田 「パン屋の息子」はどういった形でキャスティングを行われましたか。

 

日原 普段はですね。(鋤崎監督と)同じように身の回りの役者さん、知り合いを使ってきてたんですけど。

この作品に関しては脚本を書き始めた瞬間にもう志賀(太郎)さんだったんですよ。志賀さんが動き始めたというか。勝手ですよね、僕。志賀さんが勝手に頭の中で動きだして、志賀さんがパンをこね始めた…。

 

深田 それはもうキャスティングのお願いをする前に…。

 

日原 する前です。する前にもう志賀さんが動いていたんですよ。志賀さんが僕のお父さんにすごい似ているんですよね。

 

深田 そうなんですね。

 

日原 志賀さんでいきたいという気持ちが、書きあがった時にもうあって。それでどうしようってなって、なかなか出てくれないだろうなと思いながらも事務所に企画書を送ってマネージャーさんと話をして。(僕は)どこの人かもわからないただの自主映画の人ですから。

 

深田 いわゆるインディペンデント映画だと、キャステイングのやりとりは大変ですよね。

 

日原 (マネージャーさんには)だいぶ無理なことを言ってました。出てくれないとこの映画完成しないんでって(笑)。膝ついて土下座しながら電話しているっていう状況で。

 

深田 じゃあ逆に鷲尾真知子さんに関しては。

 

日原 先に志賀さんが決まったんですね。ただ、志賀さんを使うなら、お母さん役もある程度、相手としてしっかりしないといけないなと思って。実際のおかんのイメージは全然違う人なんですよ。もっと太っていて、小太りで上品さのないお母さんなんですけど。ただ、僕の中で、そのままうちのおかんが映画出てきたらちょっと嫌だなと思って、映画として(笑)。だから志賀さんに合いそうなお母さんで、雰囲気が小津安二郎作品に出てる杉村春子さんみたいな人いないかなと思った時に、鷲尾さんが頭に出てきたんですよ。

 

深田 ちょっと品があるような。

 

日原 はい。それでまた土下座です(笑)。さらに志賀さんよりハードルの高い土下座が必要になりました(笑)。

 

深田 基本的にお父さん役の志賀さんを中心にキャスティングを考えていったんですね。

 

日原 鷲尾さんは絶対出てくれるだろうということを想定しつつ、周りの役も固めていったという感じです。

 


 

母親が乳がんになって―『バイバイ、おっぱい』

 

深田 これも全然違う雰囲気の作品かと思うんですが、ある意味一番どういう経緯で作られたか聞きたい作品ではあります。

 

鋤崎 僕は自主映画を作り続ける中で、映画監督を目指そうと決心して、映画の専門学校卒業して、就職もせずやっていたんですけど。専門学校の中で映画を作る大変さももちろん知りますし、お金もかかるし、労力もかかるし、やろうぜと言ってくれる仲間も少ないし。そんな中でちょいちょいチャレンジはしてきたんですけど、なんか小っちゃい中でやろうとしていました。まあ、そういう作品って面白くないんですよね。それでちょっと映画から遠ざかり始めてしまって。そういう生活が続いていく中で、一回ちょっと自分の持っている全てのものを出したいなと。例えば特殊メイクだったり、86分という長編だったり。制作・演出とかも結局ずっと1人でやっていたんですけど、そういう枷とかを気にせずやりたいなというのが一つありました。テーマに関して言うと、この作品を作っていた頃、周りの人が結婚したり、家族の中でも親が離婚したりとか、姉が結婚するかもしれないとかいろいろあって。そんな中、自分が付き合っていた子から、将来が見えないと言われてふられて。それで“結婚”て何よ、“条件”て何よ、そういうのじゃなくない?ってのがあって…。そういうものがその時強かったので、それを軸にして考えました。あと、おっぱいは好きじゃないですか、みんな。

 

深田 男はみんな(笑)。

 

鋤崎 いや、男女みんなそうだと思っていて。生まれた時からおっぱいに世話になっていて。女性もそのおっぱいにヒエラルキーがあって、豊胸したりして、失敗して死ぬ人もいるし。名声を得て、でも女のおっぱいに目がくらんですべてを失う人もいるし。おっぱいってすげえなとは常日頃思っていたんです。

 

深田 その蓄積があったんですね(笑)。

 

鋤崎 そうです。蓄積があったのと、あとは母親が乳がんになって、片方だけ除去したんですよ。それを医者が病室にこういう感じになりましたって、持ってきて。紙の上にどんと置いて、ここなんですけどって(病気の)説明をし始めるんですよ。おっぱいがあるんですよ、そこに。

 

深田 それは鋤崎さんの前で?

 

鋤崎 そうです。僕が家族なんで、確認をしなくてはならなくて。母親の切除された片おっぱいを見せられて説明されている時に、なんかちょー悲しくて。「あああ…」って。たぶん腕とか足とかよりおっぱいだったから。あとは母親の気持ちとかもやっぱり考えてしまって。でも別におっぱいなくても母親は俺の母親だし。愛しているし。そういうことと結婚に対しての考えも絡んで、これは1つにまとめられるのかもしれないなと思い始めて。そこからああいう話になりましたね。

 

深田 結構自分に近いところから、作品の発想を持たれたんですね。

 

鋤崎 そうですね。さっきの話にも戻るのですが、無理やり映画を作るために何かを想像するんじゃなくて、自分の中にあるリアルなものというか、そういうのを全部吐き出すということをやってみた。それが誇れるものかどうかは分からないですけど、誇れないと思っていたらいつまでも映画を撮れない状態が続いていたので…。こんなのしかテーマとしてないけど、それでもやっぱり出さなくてはいけないっていうのがあったので

全部身近なものでやりましたね。

 

 

 

今持っている自分の伝手の中で、全部いいものを

 

鋤崎 僕はそんなにキャスティングの選択肢っていうのは考えてなくて。さっきも言ったんですけど、今持っている自分の伝手の中で全部いいものをというか。出演していただいた方はいろいろな活動の中で出会って一緒にやってみたいなというような人だったし。僕のわがままもきっと聞いてくれるだろうなというところがあって。外部でどうこうというのは考えず、そこから声をかけさせてもらいました。

 

深田 作品の印象としては、テーマ的にもキャスティングにしても、こんなに身近な環境が影響しているとは思わず、意外でした。